「お笑いビッグ3」「世界のキタノ」など、
永きに亘り活躍を続けているビートたけしさん。
今回はそんなビートたけしさんにスポットをあてて、
ビートたけしの師匠は誰?深見千三郎?
ビートたけしの師匠の死因は火事&左手は指4本ない?
ビートたけしと師匠のエピソードは?
以上3つのテーマについて調べてみました。
どうぞ最後までお付き合いください。
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ビートたけしの師匠は誰?深見千三郎?
ビートたけしの師匠は誰?
ビートたけしさんといえば、1980年代初頭に起こった漫才ブームで、
漫才コンビ・ツービートとして毒舌漫才でブレイクしてからというもの、
テレビ番組『THE MANZAI』『オレたちひょうきん族』
『天才たけしの元気が出るテレビ』など、
出る番組もほとんどが大ヒットを重ねてきました。
また、1980年代後半からは俳優として映画やテレビドラマにも出演し、
1990年代からは映画の脚本家・監督としても目覚ましい活躍を続けています。
1989年の『その男、凶暴につき』で映画脚本家・監督デビューし、
その後の作品でも世界的に高い評価を得ています。
1997年の『HANA-BI』ではベネチア国際映画祭金獅子賞を受賞!
また、2010年にフランス芸術文化勲章コマンドゥール、
2016年にレジオン・ドヌール勲章オフィシエ、
2018年に旭日小綬章を受章しています。
昭和から平成そして令和と日本の芸能界のみならず、
映画でも世界を席巻してきたビートたけしさん。
そんなビートたけしさんには、「深見千三郎」という師匠がいるのです。
深見千三郎とはいったいどんな人なのでしょうか?
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ビートたけしの師匠 深見千三郎のプロフィール
深見千三郎さんは本名を久保七十二(なそじ)といいます。
大正13年3月31日(1923年)に北海道の浜頓別町で生まれ、
樺太(サハリン)で育ちました。
高等小学校卒業後、
「あゝそれなのに」「うちの女房にゃ髭がある」などのヒット曲を持つ、
“歌う浅草芸者”として映画や舞台で活躍していた
姉の『美ち奴(みちやっこ)』さんを頼って上京します。
浅草にある姉の芸者屋に住み込み、問屋に奉公に出ますが、
やがて日本一の盛り場で劇場街だった浅草六区に通い続けるようになります。
そして芸の世界に魅力を感じた深見千三郎さんは、
レヴュー喜劇の劇場の楽屋に出入りし、
映画館で見たフレッド・アステアのミュージカル映画に憧れて、
タップダンスを習得しています。
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幻の浅草芸人
その後、
姉の美ち奴さんに時代劇映画の大スターであった片岡千恵蔵さんを紹介され、
日活京都撮影所で大部屋役者として斬られ役の日々を過ごすようになります。
その際に片岡千恵蔵の「千」の字を貰い、芸名を『深見千三郎』としています。
それから浅草を経て深見さんは帰郷し、
1945年に『深見千三郎一座』を旗揚げしています。
座長として全国各地を回った後、1959年頃、深見さんは再び浅草へ戻ってきて、
ストリップ劇場の『浅草ロック座』に入りコントを始めます。
いわゆる「幕間」のコントながら非常に面白いと評判を呼んだそうです。
舞台はストリップ劇場なので、当然客は踊り子の体目当てに入場しています。
なので、コントになると怒号混じりの野次が飛ぶ事も多かったんだとか。
しかし深見さんはそんな客を
「うるせえ、黙って観てろ!」と一喝して黙らせ、
何事もなかったようにコントを続行したそうです。
時には、
野次を飛ばした客自身も笑わせる事もあったというのですから、
相当面白かったのでしょうね!
また、深見さんは同じ浅草系の芸人からの評価も高い人で、
みんなから「師匠」と呼ばれていました。
それは「浅草に深見以外に師匠はいない」という敬意を含んだ特別な意味だったそうです。
芸人以外の浅草界隈の人々からも師匠と呼ばれていたそうですから、
その人望の厚さのほどが伺えますね。
後にテレビの世界で大活躍する
東八郎さんや萩本欣一さんなども深見さんの世話になっていました。
その他にも深見さんのファンを自称する浅草芸人は数多くいたそうです。
しかし、深見さんが劇場の幕間コントに執着し、テレビ番組に背を向けていた事や、
当時の8ミリフィルムの記録が残っているわけでもなく、
深見さんの舞台の映像記録は一部しか現存していません。
このことから深見千三郎さんは「幻の浅草芸人」と呼ばれています。
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深見千三郎の「最後の弟子」はビートたけし
そんな東京都台東区浅草六区にあるストリップ劇場の浅草フランス座で、
芸人見習い志願としてエレベーターボーイを始めたのがビートたけしさんでした。
時は、1972年夏。
当時ビートたけしさんは、
明治大学工学部(後の理工学部)機械工学科に現役合格し入学したものの、
大学での生活には適応できず、五月病を患うようになりました。
大学2年の時には、家出同然に一人暮らしを始め、
明治大学も中退し、東京都新宿区の界隈で当ての無い日々を送っていたのです。
時代は、学生運動が収束に向かったこともあり、
たけしさん自身も去就を模索する必要に迫られていました。
芸能に興味はあったものの、アングラ演劇には馴染めず、
理工系なので文学的なものはわからない、しかし演芸なら自分にも理解できるだろう
引用:『驚きももの木20世紀 – 伝説の浅草芸人・深見千三郎と最後の弟子』朝日放送
という理由で、いつしか芸人を志望するようになっていたのです。
やがてたけしさんは、同劇場の経営者兼座長であった深見千三郎さんに認められ、
最後の弟子として深見千三郎さんにコントのイロハを叩き込まれていきます。
このあたりの経緯は 劇団ひとりさん監督の映画『浅草キッド』で描かれていますね。
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ビートたけしの師匠の死因は火事&左手は指4本ない?
深見千三郎は左手の指4本なかった
大部屋役者として日活京都撮影所で下積みを過ごした深見千三郎さんでしたが、
それから1年ほどして浅草に戻り、順調に舞台をこなしていました。
しかし、戦時中に徴用された軍需工場で機械に左手を巻き込まれ、
親指以外の指を切断する大ケガを負っています。
後に、
「戦争に行きたくなかったから、指を四本落とした」とも語っていたようですが、
真相は明らかになっていません。
しかし深見さんはそんな不自由な手で、
ギターなどの楽器を操りタップダンスを踏むなど多芸多才だったそうです。
そんな深見さんは大のテレビ嫌いで有名でした。
ビートたけしさんも、
テレビの芸は絶対にこの箱(テレビ)からはみ出せない。(テレビ番組は、)まるで芸人の棺桶だ
と、興味や金銭欲から安易にテレビという分野に踏み込まないよう釘を刺されたこともあったようです。
また、テレビ向けに最適化を施したコントを演じて、
当時人気絶頂だったコント55号をひどく嫌っていたとも伝えられています。
深見さんがテレビを嫌っていた理由については諸説ありますが、
戦争中に受けたこの左手の負傷痕を気にしたためという説もあるようです。
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ビートたけしの師匠深見千三郎の死因は火事
深見千三郎さんが経営者兼座長を務めていた『フランス座』は、
ビートたけしさんの独立前後から経営に行き詰まり、
深見さんは経営権を手放すと共に芸人も引退しています。
引退後は東八郎さんの元弟子が経営する化粧品会社に入社させてもらい、
慣れないサラリーマン生活を過ごしていました。
しかし、最愛の妻である、
紀の川麻里さん(浅草フランス座の踊り子)が亡くなってから、
酒量が急激に増えていたとされます。
そんな深見さんは、1983年2月2日早朝、
自宅であるアパート「第二松倉荘」(台東区浅草・現存せず)の自室で、
タバコの火の不始末が原因で火災を起こしていまい、
折りしもはしご酒をして泥酔していたために逃げ遅れ焼死してしまいました。
享年59歳。
最後に酒を酌み交わしあったビートたけしさんは後年、
自伝的小説『浅草キッド』の作中にて深見さんの最期の状況を振り返っています。
それによると深見さんの遺体は玄関に倒れた状態で見つかり、
また両手で抱きかかえられるほどの小さな体軀になっていたとのことです。
深見さんの死に際してマスコミは、
「“笑いの師匠”孤独な焼死」と大々的に報道しています。
このように深見千三郎さんの名前がメディアを通して全国的に大きく報道されたのは、
深見さんの生涯で最初で最後のことでした。
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ビートたけしと師匠のエピソードは?
笑われるのではなく笑わせろ
ビートたけしさんは深見さんからの影響を深く受けています。
たけしさんの芸風である毒舌・早口・アドリブなどは全て深見さん譲りであり、
タップダンスも得意としていたことから、
周囲から「まるで生き写し」と言われた事もあったといいます。
後にたけしさん自身も
芸人としての心意気・感覚すべてピッタリだった。自分はその心意気を継いでいる
と語っていました。
また、別番組のインタビューでは、
芸人としての生きざまは師匠の深見千三郎から教えられた。深見から言われた「笑われるのではなく笑わせろ」という言葉は未だに忘れられない
と語っています。
最後の弟子たけしを破門した
深見さんは、漫才を軽演劇(コント)よりも下位の芸能と見なしていたようです。
一方、たけしさんは当時コントでの出世を模索していましたが、
所属していたフランス座が経営難に陥り、給料の支払いすらままならなくなったため、
背広一つで稼げる漫才に魅力を感じていました。
そんな時、ビートきよしさん(当時:松鶴家二郎)から漫才コンビを組まないかと誘われ、
「漫才で勝負したい」と師匠の深見さんに申し出ましたが、
テレビ嫌いの深見さんから激怒され、
破門を言い渡されてしまったというエピソードがあります。
しかし、深見さんの本心は、
自分が気にかけた弟子が去っていくことの寂しさの方が大きかったともみられていて、
ツービートが漫才でメキメキ頭角を現していく姿を喜び、
ツービートの出演するテレビ番組に見入っていたそうですよ。
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日本放送演芸大賞の賞金を全て小遣いとして渡した
ビートたけしさんが1982年度の日本放送演芸大賞を受賞した際、
もらった賞金を全て「小遣いです。使ってください」と言って、
師匠の深見さんに渡しています。
深見さんは馴染みの飲み屋でが
タケの野郎がよ、生意気によ、小遣いだなんて言ってよ
と何度も嬉しそうに語っていたといいます。
それは奇しくも、深見さん失火で死去する1か月前の事でした。
永久に謎の芸
生前、深見さんはたけしさんに
俺にはお前にも教えていないとっておきの芸がある
と語っていたといいます。
たけしさんはその芸がどのようなものであるのか幾度となく尋ねたそうですが、
深見さんは頑として答えなかったそうです。
この芸を見たら、どいつもこいつも驚いてひっくり返る
とまで豪語していたその芸は、
深見さんの死によって永久に謎のままとなってしまいました。
でも笑うのではなく「驚いてひっくり返る」芸って想像もつきませんね。
ビートたけし語録
深見のおとっつぁんもバカだよな。死んだら人が焼いてくれるのに、自分で焼いちめえやんの
これは、深見さんの葬儀の後、たけしさんは札幌での仕事のため羽田空港へ向かい、
待ち合わせていた放送作家の高田文夫さんに放った言葉です。
師匠譲りの毒交じりの一言にたけしさんの無念さを感じますね。
自分は有名になる事では師匠を超えられたが、芸人としては最後まで超えられなかった
このたけしさんの言葉で、深見さんがどれだけ偉大だったのかが伺い知れますね。
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まとめ
今回はビートたけしさんと師匠の深見千三郎さんにスポットをあてて
- ビートたけしの師匠は誰?深見千三郎?
- ビートたけしの師匠の死因は火事&左手は指4本ない?
- ビートたけしと師匠のエピソードは?
以上3つのテーマについて調べてみました。
いかがだったでしょうか?
たけしさんには今後も益々活躍を続けてほしいですね。
最後までお読みいただきありがとうございました。